ネテロが祈ってから一突きする修行を、毎日一万回続けた回想は、第25巻 No.265「突入⑤」です。キメラ=アント編の宮殿突入の最中に、ネテロの過去として挟み込まれます。ファンのあいだで感謝の正拳突きと呼ばれることの多い場面です。
どんな場面か
宮殿への突入が進むなか、物語はネテロの過去の回想に入ります。回想は、46歳のネテロが自分の肉体と武術の限界に行き詰まったところから始まります。そこで彼は、自分を育ててくれた武道への恩返しとして、祈ってから一突きする修行を毎日一万回続けます。最初は一万回に18時間以上かかっていたものが、50歳を越えるころには1時間を切るほどになり、山を下りたとき、その拳はまったく別のものになっていました。
考察
行き詰まった人が選んだのは「もっと」ではなく「ありがとう」
作中の事実として、ネテロがこの修行を始めたきっかけは、武の限界に行き詰まったことでした。そして、そこで選んだのは、より激しい鍛錬でも新しい技の研究でもなく、武道への恩返しとして祈ってから突くという修行でした。
ここからはヨミコミの読みです。行き詰まったとき、人はたいてい「もっと」を求めます。もっと練習する、もっと工夫する、もっと強い相手を探す。ネテロはその逆を行きました。上を目指すのではなく、ここまで自分を育ててくれたものへの感謝に立ち返った。
その結果として、上を目指していたときには届かなかった場所に届いてしまう。この逆説が、この回想のいちばんの読みどころだと考えています。強さを目的にしていたときには越えられなかった壁を、強さを目的にしない修行が越えさせた、という構図です。
祈りという、効率の悪い手順
この修行には、毎回祈るという手順が入っています。ただ突くだけなら、もっと早く一万回に届くはずです。実際、最初は一万回に18時間以上かかっていました。
ヨミコミは、この効率の悪さにこそ意味があると読みます。一突きごとに祈るということは、一突きごとに「何のために突くのか」を確かめ直すということです。数をこなすための反復ではなく、毎回意味を込め直す反復。それを続けるうちに、祈りと突きが分けられなくなり、動きそのものが速くなっていった。18時間が1時間を切るまでの年月は、祈りが体に溶けていく時間だったとも読めます。
この場面を締めくくる一文は、ネテロ本人のセリフではなくナレーションです。本人は自分の強さを誇っていません。修行の成果を語るのは物語の側であって、ネテロ自身は淡々と祈り、突いていただけ。その距離感も、この修行の性格をよく表しています。
なぜ宮殿突入の最中に挟まれるのか
この回想は、戦いが始まろうとする緊迫した流れのなかに置かれています。ヨミコミの読みでは、これは読者に、ネテロの強さがどこから来ているのかを示すための配置です。
このあとネテロは王との一騎打ちに臨みます。No.291「自問」では、ここまで来られたすべてに感謝しながら、胸の前で手を合わせる姿が描かれます。祈ってから突く修行と、戦いのさなかに手を合わせる姿。二つの場面を並べると、ネテロの人生が感謝という一本の軸で貫かれていることが見えてきます。修行の回想は、その後の戦いを読むための鍵として置かれていると考えられます。
今の自分に置き換えると
仕事でも勉強でも趣味でも、ある程度続けていると、伸びが止まったように感じる時期が来ます。そんなとき、やり方を増やしたり量を増やしたりしたくなるものです。
ネテロの回想は、別の立ち返り方があることを示しています。自分をここまで育ててくれたもの、たとえば最初に教わった基本や、続けてこられた環境に目を向け直す。そして、繰り返しの一回一回に「何のためにやるのか」を込め直してみる。
一万回という数字に目を奪われがちな場面ですが、大事なのは回数そのものより、繰り返しにどんな意味を込めるかです。無理に量を増やす話としてではなく、同じことを続けるときの心の置き方の話として読むと、この場面はぐっと身近になります。
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この修行の先にある、王との一騎打ちで感謝を口にする場面(No.291)とあわせて読むと、ネテロという人物の一貫性が見えてきます。