ニーナとタッカーの場面が描かれるのは、第2巻 第5話「錬金術師の苦悩」です。兄弟がイーストシティで出会った錬金術師タッカーの家で、その娘ニーナの身に起きたことが明かされます。
子どもが犠牲になる場面なので、このページでは何が起きたかの細かな描写には立ち入りません。考えたいのは、この出来事からエドとアルが何を受け取ったのか、という一点です。読んでいてつらくなる場面でもあるので、無理に読み返す必要はありません。
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どんな場面か
旅を続けるエドとアルは、イーストシティで、錬金術師のタッカーと、その娘のニーナに出会います。第5話では、暗いタッカーの家に兄弟が入っていった先で、ニーナの身に取り返しのつかないことが起きていたと明かされます。そのあとアルはタッカーを止め、元に戻してあげられないと、ニーナに謝ります。
考察:この回が兄弟に残した問い(ここからは当サイトの読み)
ここから先は、作中に描かれた事実ではなく、ヨミコミとしての読みです。
同じ技が、人を助けも傷つけもする
タッカーも、兄弟と同じく錬金術を学んだ人です。同じ技を身につけていても、何のために使うかで、それは人を助ける力にも、人を深く傷つける力にもなります。
第5話は、兄弟がそのことを、物語のかなり早い段階で、もっとも苦い形で突きつけられる回だと読めます。錬金術は、それだけでは良いものでも悪いものでもない。使う人が何を目指し、何を差し出してよいと考えるかで、意味がまったく変わってしまう。この回を境に、人は何のために錬金術を使うのか、という問いが、作品の奥に流れ続けるように感じられます。
題が「錬金術師の苦悩」であることにも目を向けたいところです。苦悩しているのが誰なのか、題ははっきり言いません。タッカーのこととも、兄弟のこととも読めます。ヨミコミは、この題を両方に向けられたものとして読みます。
兄弟は、他人事として切り離せない
第1巻の紹介文にあるとおり、兄弟は幼いころ、禁じられた人体錬成に手を出し、大きな代価を払っています。
だから第5話の出来事を前にしたとき、兄弟は、自分たちとは関係のない誰かの話として片づけることができない立場にいます。禁じられた領域に踏み込んだという点では、兄弟も無関係ではないからです。ヨミコミは、この回に描かれる出来事の重さが、タッカー一人のものにとどまらず、禁忌に触れた兄弟自身の過去にも重なって響いていると読みます。
この回の兄弟の怒りや悲しみは、まっすぐな正義感だけでできているのではなく、自分たちへの問いを含んだものとして読むと、場面の重さがいっそう伝わってきます。
等価交換では、はかれないもの
作中では、錬金術の土台に等価交換の法則があります。ただ、第5話で失われたものは、何を差し出せば釣り合うのか、そもそも、はかること自体ができないものです。
アルが、元に戻してあげられないと謝る姿は、天才と呼ばれる兄弟にも、どうしてもできないことがあるという事実を示しています。錬金術で取り戻せないものがある。これは、自分たちの体を取り戻すために旅をしている兄弟にとって、自分たちの目的そのものに向けられた問いでもあります。
もう一つ見逃せないのは、代価を負うのが誰か、という点です。兄弟が過去の錬成で失ったものは、兄弟自身のものでした。一方で第5話では、犠牲になったのは、自分では何も選べない子どもでした。
自分で選んで払う代価と、誰かに負わせてしまう代価は、まったく別のものです。ヨミコミは、この違いこそが、兄弟がこの回で受け取ったもっとも重いものだと読みます。
立ち止まったあとも、旅は続く
この回で、兄弟の旅が終わるわけではありません。元の体を取り戻すという目的は変わりません。
ただ、その目的のために何をしてよく、何をしてはいけないのか。その線を、兄弟は第5話で、言葉ではなく体験として胸に刻んだと読めます。のちに兄弟が大きな選択を迫られる場面を読むとき、この回の記憶が土台にあると考えると、読み返したときの重みが変わってきます。
今の自分に置き換えると
知識や技術は、それだけでは良いものでも悪いものでもありません。同じ力が、誰かの役に立つことも、誰かを追いつめることもあります。結果を急ぐとき、自分では払わずに、見えないところで誰かに負担を押しつけていないか。この場面は、そう立ち止まって考えるきっかけとして読めます。
また、どうしても元に戻せないことに出会ったとき、まず、戻せないと認めることから始まるものもあります。アルの謝罪は、取り返しのつかなさから目をそらさない姿としても読めるはずです。
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等価交換や、錬金術の代価についての作品の考え方は、下の関連クイズで振り返ることができます。